「あ。特派の人たちだ」
「とくは?」
階位が上がったのにもかかわらず上司に備品を運べと雑用を申しつけられ(理由がちょうど近くにスザクがいてしまったからなのだが)、同僚のひとりと言われたとおりにそれほど重くもない箱を運んでいる最中だった。がやがやと軍服を着たり白衣を着ている雑多な集団が精密機械らしきものを奥にある部屋に運んで行っているのにかち合ったのだ。このエリアは研究設備が整っている研究施設エリアである。だから白衣の研究者がいてもちっともおかしくはない。
スザクの隣にいる同僚は要領を得たとでも言うようにあっさり彼らの正体をスザクに告げたけれど、しかし、スザクはとくはと言われてもぴんとこない。
「特別派遣嚮導技術部。通称特派もしくは技術部。しんねーの?」
「うん。知らないな」
「…お前、もっと周りに気ィ配れよ」
「君みたいに情報通じゃないってだけだろ。それで?」
ううん、と同僚はスザクに自分の知識をもったいぶるようにひとつ唸ってから、ちらりとスザクを見る。
「第二皇子シュナイゼル殿下直属の技術部らしい。ナイトメアの新世代を開発してるらしいぜ。ま、クロヴィス殿下とは指揮系統違うから、日本では公にされてないし、あんまり表に出てこないんだよね。だからお前が知らなくても無理はないか」
「へえ……その人たちが何で日本に?」
「さあ。研究のために来たんじゃねえ? サクラダイトの産地だしさ。命令系統違うけど、あのシュナイゼル殿下直属の部隊だから融通きくんだろうし。それに変人が多いって有名だよー。主任の補佐してる人は美人だけど」
「君って本当にそういうことには詳しいなあ」
「お褒めのお言葉どーも」
慇懃に腰を折ってみせると、スザクはそのおどけた調子に笑みをこぼす。
しばらくふたりで笑い合ったあとで、スザクが荷物に貼られているシールに目を落とすと区画番号が彼らが出入りしている場所と一致していることに気がついた。
「ん? この荷物ってもしかして…」
「特派行きっぽいなー」
少しだけ、胸が騒いだ気がした。
白い。
痛い。
この二つのことをまずルルーシュは感じることができた。
ぐうと呻いた。すると、眼球の奥がゆらゆらと揺れた気配がする。続いて、体の重み。胃の底から押し上げるような圧迫感に喉がうごめく。胃の中のものをぜんぶ吐き出してしまいたい衝動と戦い、次いで酸素を求めて口を開ける。吐き気はおさまらなかった。
体全体にいやにぬるいべたついた汗が伝っていき、ルルーシュは喘ぎながら、ゆるゆると視界をひらいた。力は入らなかった。
「……」
視界の端に、誰か、見える。誰かの影がちらついている。
それだけ確認すると、再び痛みが襲ってきたためにルルーシュは世界を拒絶するようにひとみを閉じる。耳の奥に滝が水底へ叩きつけるような深いごうごうとしたおたけびが聞こえている。その端々に、かすかな人の声も聞こえた気がした。男か女か、どちらか判別しがたいが、今のルルーシュはそんなことにかまっている暇はない。繰り返し襲ってくる痛みと重みと戦うのが精いっぱいである。身を縮ませようと手足を動かしただけで、残っている力をぜんぶ使い切ってしまったようだ。
だが、痛みに意識が遠のくということはなかった。ずきずきと変わらず全身が痛み続けているけれど。滝つぼへ落ち込んでいく水の音も徐々に薄まり、代わりに奇妙な静けさが耳を覆う。
体の重みだけがはっきりしていた。地球をめぐる重力が、しっかりルルーシュにそれを理解させている。
ぜえぜえと息を吐いた。熱い。痛みの次は熱を感じた。
体の内は熱いのに、皮膚はぬるい。その差にルルーシュの全身がふるえた。
そのとき、ふっとどこからか、柔らかな冷気がルルーシュを包んだ。
ルルーシュは重たいひとみをこじ開ける。
「っルルーシュ!」
切羽詰った声音に、金の髪が見える。
ぼやけた視界の先に、ルルーシュはひどく懐かしいものをみた気がした。同時に胸がぎしりときしむように痛んだ。それは楽しいとかうれしい等の感情ではなくむしろ苦々しい種類のものであったのだが、苦しさにルルーシュは深く考え込むことはできなかった。
何だろう、この、冷たさは。
「ルルーシュ! 私がわかるか?」
「失礼ながら、殿下、あまりお声を荒げられぬようお願いいたします。ルルーシュ殿下の御身にさわりま」
「ああ、ルルーシュ、痛むのか? かわいそうにな。けれど、もう大丈夫だ」
「殿下…!」
「これからはこの私がずっとついててやるからな。どこが痛む? ああ、すまない。話せないんだろう? 私としたことがルルーシュに無理をさせるなど」
「クロヴィス殿下!」
ふっと冷たさが消えた。再び、熱がルルーシュを覆ってしまう。苦しさに、ルルーシュはあえいだ。
「黙れ! 私はいまルルーシュと話をしているのだ。騒々しくするな!」
「……」
「ああ! うるさくしてすまない、ルルーシュ。もう黙らせたからな! 安心しろ!」
ふわりと、冷たさが再び舞い降りてくる。
ルルーシュはぼやける視界の中で、それが何かようやくわかってきた。額に、柔らかな感覚がした。熱い体温を冷ますように冷えた誰かの手が、ルルーシュの額に置かれているのだ。労わりに満ちたその感覚に、ルルーシュはわけのわからない胸の奥のくすぶりがふっと誰かに撫でられたような気がした。
―違う
苦しさの中で、どこか、何かが違うような気がする。ルルーシュは違和感を感じていた。どこか足もとが浮ついているような頼りない感覚。自分自身という存在が水の泡のようにはかなく、頼りないように覚束ない。
「クロヴィス殿下。ご無礼を承知で申し上げます。ルルーシュ殿下のお体に障りますので、お下がりください」
「ルルーシュ…大丈夫か? 兄がわかるか? ちょっとでもいいから…返事は、できないか?」
返事。
ルルーシュは薄く開いた眼差しを、はっきりと、金色の髪に向けた。
クロヴィス。
確かに、そう聞こえた。
クロヴィスとは誰だ、と先ほどからちらちら現れる名前に霞みがかっていた意識を懸命に集中させる。
聞き覚えがある、ような気がする。
どこかで、聞いた名前。
違う、自分も知っている名前だ。
そう、確か…何度も彼はその名を口にしたはずだ。
この金色の髪の誰かを、優しげにルルーシュの名を口にする誰かの名前をきちんと呼んでいた、ような気がする。
乾いた舌がもどかしげに口内で揺れた。なんとか、何かをことばに変えようとした。
頭の中に何かがある。苦しい。苦しいから、何かにたどり着けないのだろうか。
ルルーシュは無意識に手を伸ばそうとした。
力強い手が、ぐっとその手をつかむ。
「っ、ルルーシュ…!」
ぱちりと火花がはじけた気がした。
しあわせに笑う、優しい母に。元気よくはねまわるお転婆な妹。
―約束ですよ、ルルーシュ! 今度はユフィも行くんですからね!
服の裾を引っ張っていた、少しだけ年下の、かわいい、義理の妹も。
仕方ない、と年長の紫色の大人びた義理の姉は、いろんな話をしてくれた。
穏やかに変わりない日々。うつくしい宮。やさしいひとびと。笑顔に満ちたきらびやかな生活。
ずっと続くんだと思っていた。
赤赤赤赤赤赤赤赤。
むせかえる、生暖かいにおい。
―どうして母上を助けなかったんですか!
―ナナリーの見舞いも…!
どうして。
この世に生まれおちるだけではだめなのか。
ひとは生まれたときから不平等だからと、あきらめるしかないのか。
世界は変えられないの。
―ブリ鬼野郎が! 日本をどうしようっていうんだ!
どうして。
ただ、妹と笑い合って暮らしたいだけなのに。
それがそんなにいけないことなのか。
これ以上、妹に何をしようっていうんだ。
もう十分だ。これ以上、痛めつけないで。嫌だ、もういやだ。
どうして、何もしていないのに、そんなに憎まれねばならない。
この身に流れる血がすべての道を変えていく。
―……ルルーシュ、俺は……ぼ、くは……僕は、もう、自分のために、力を、
悲劇はどこまでもどこまでもどこまでもどこまでも執拗に追いかけてくる。連鎖。
ああ………世界なんて、だいっきらいだ。
「…クロヴィス」
乾いた音が、ルルーシュの頭に響く。
それは絶望の鐘だった。