HOME >> MENU >>

聖櫃  第一章 * みずのそこへ往く

 声がする。
 やさしい声。
 どこかで聞いたことがあるのに、絶対にあるのに、どうしてだろう。
 どうしても思い出せない。頭の奥は霞がかって記憶の引き出しを開こうとしても、取っ手がつかめない。
 これでも、自分では普通の奴らよりは頭がいいと思っているのにな。誰の声かすら覚えていないなんて…。
 やはり、俺なんてこんなものか。
 ああ…こういうのを確か、“日本”では井の中の蛙って言うんだったな。誰に教えてもらったんだろう?

 何の力も持たない、生きたこともない屍。
 人一人護ることもできない、護れないただの人形。

 …俺はどうして今まで息をしていたんだ?
 何故、俺はあそこまで生に執着していたんだ。
 最初から死んでいたなら、そのまま、息を止めればよかったじゃないか。それとも“あの戦争”で死ねばよかったんだ。



 いや……
 違う。


 違う。
 大切な、何か?

 俺は何かを忘れてる。



 “あの戦争”?


 俺が、息をする理由。



 大切な誰か。

 ―おにいさま。


 俺には無条件にやさしい存在が手元にあるのだ。護らなくては。息を止めてはいけない。
 俺がいなくなればか弱いあの子を誰があの凶悪な世界から、弱肉強食の世界から護ってくれる。
 護らなくては、護らなくては。
 あの子に笑顔と安心できる世界を。

 そして復讐を。

 復讐?
 何故、復讐。

 ―弱者に用はない

 “ ”を護らず、幼い俺たちを打ち捨てた、あいつと、弱者をいたぶることをよしとするあの国に、復讐を。
 俺の誇りにかけて。



 だって、だって俺は。
 護らなくては、復讐しなくては


 …だが、誰を護るんだ? 何に復讐を。



 混乱している。頭が、思考回路がどこかでいかれてる。決定的なことばが出てこないんだ。



 矛盾むじゅんムジュン矛盾むじゅんムジュン




 違う違う!
 いつもの俺に戻れ。
 いつもの、俺。


 俺?
 俺は…


 誰かが呼んでる。
 暖かい誰かの声が聞こえる。
 俺の名前を呼んでる。
 待って、待ってくれ。
 遠くに行くな。教えてくれ、頼むから。
 俺は誰だ?
 俺は何をしようとしていたんだ。

みずのそこへ往く







 爆音と、振り落ちる闇と、笑顔と。













「スザク!!」

 しかし、その喉から漏れたのは空気が入り混じった掠れ声のみだった。喉がつきりと痛み、途端に彼は咳き込む。肺が痛んだ。いや、それだけでなく肋骨も痛んだ。息がうまくできない。

「殿下!」

 知らない男の低い声が何かを叫んだ。
 続いてばたばたと慌しく駆け回る音が聞こえ、機械音や金属音が響く。「呼吸器を」「点滴」「――殿下にご連絡を」手早く何かを指示する声が次々と生まれていく。
 咳き込むルルーシュの口に何かを取り付けられた。すると、楽に呼吸ができるようになる。
 誰かの手が額を滑る。それを冷たいと思う間もなかった。胸が燃えるように熱いからだ。
 ルルーシュが瞼を下ろし、精一杯呼吸をしている近くで数人の声が飛び交っていた。

「血圧、上133、下89」
「脈拍、144」
「興奮状態か……鎮静剤を!」
「はい!」

 ルルーシュは無理やり瞼を持ち上げた。
 呼吸ができるようになったおかげで喉や肺は大分楽になってはいたが、体全体が麻痺したように思うようにいかない。
 筋肉に命令が行き届かず、かろうじて開いた瞼も、その先に映る白の世界も脳にはただ“白”というキーワードを伝えるのみだった。周りに誰かがいる気がするが、誰か判別がつかない。入れ替わり立ち代わり誰かが視界の端をさ迷っている。それがうっとうしくて、ルルーシュはもう一度咳き込んだ。

「…スザ…ク……!」

 そうしておぼろげながらに、“誰か”の名前を口にする。まるでそれが最後の希望とでもいうように。
 唇を噛み締めて、ルルーシュは瞼をこじ開けた。
 眠ってはだめだ。意識を閉じてはダメだ、そうすればまたわからなくなる。
 今度は“彼”のこともわからなくなるかもしれない。
 そんな恐怖が先立って、余計にルルーシュの頭を混乱させた。
 口の中が乾いていた。それなのに、鉄の味はする。

「先生、鎮静剤です」
「よし……殿下、御身を傷つけることをお許しください」

 その声が聞こえると同時にまたもや頭の中が霞がかっていく。
 嫌だ!
 消えていく意識に恐怖を覚え、何かにすがりつこうともがいて彼は手を伸ばそうとした。白い天井、見知らぬ人影。針で刺されたように動かぬ四肢。体は鉛のように重たくなっていく。冷たい水の底に引き込まれていく。

―ルルーシュ

 声が聞こえているんだ、だから、とルルーシュはひとみから生理的な何かが零れ落ちて、顎まで伝うのを感じていた。
 そしてもう一度記憶は閉じられる。