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聖櫃  第一章 * 太陽はまだ、ねむっている


―弱いってなんなんだろう、スザク

 …はあ? 弱いってのは力が弱い奴のことじゃないのか?

―身体的な力が弱い、精神的な力が弱い、お金がない、悪環境、いろいろ数あるけれど、弱者ってなんだ?

 なんだそれ。
 お前っていつもそんなことを考えているのか。

―僕は、大国の皇子だ。飢えたことはないし、母上から惜しみない愛をもらい、僕を可愛がってくれる義兄上や義姉上、可愛い妹たちもいる。ひとは恵まれた環境だっていうだろう。僕自身もそう思う。大切に育てられて、いつも誰かが僕が悲しい思いをしないようにとこころを配ってくれる。

 そりゃ、皇子だから周りにちやほやされて…

―でもね、これは当たり前に享受すべきことではないと思う。僕は目を瞑ってはいけないと思うんだ。君もそうだろう? いつだって周りの違和感を感じている。

 違和感って…俺は、別に。
 俺は不満なんてないよ。そりゃ、ちょっと面倒くさいなとか思うことあるけどさ。

―スザクは日本が好き?

 …当たり前だっ。

―国を思うことは大事だよ。君が首相の息子だからという理由でなく、そこで生きている限り…僕は…ブリタニアに住む人は好きだと思う。だけど、今のブリタニアは嫌いだ。

 何言ってるんだよ、その国の皇子のくせに。

―へんなこと言ってるって、自分でもわかってるよ。だけど、今のブリタニアで僕はしあわせだと感じることが怖い。

 は?

―僕が王宮で皆と笑い合っているとき、僕の知らないところで僕の大事な人が、ひとりで泣いている気がするんだ…

太陽はまだ、ねむっている

 けたたましい音が鳴るその前に、彼はぱちりと目を覚ました。
 薄暗い部屋はしんと静まり返り彼はその暗闇の中でひとみをしばたたかせる。
 一番初めに思ったことは、あれ、どうして部屋がこんなに静かなんだろう、であった。
 そして合点がいって、むくりと簡易ベッドから起き上がる。体に寝起き特有の倦怠感があったが、さして問題ではない。彼は二三度頭を振って、意識を徐々に覚醒させていく。
 ベッドのすぐ横にある小さな整理棚の上に置いてあったデジタル時計に目を向け、早い起床時間に満足する。この分なら、トレーニングルームで一汗かいた後、シャワーを浴びる時間が十分あるからだ。
 彼はベッドの頭側に備え付けられている小さなボタンに手を伸ばした。その途端に、ふっと部屋の灯りが目を覚ます。自分のわずかな手荷物は適当に部屋の隅に置かれており、昨夜は様々な手続きのせいで精神的に疲れて軍の宿舎の食堂に行けず自販機で買った栄養ドリンクの空の容器が机の上に無造作に転がっているのが露わになった。
 彼は、手狭ではないが広くもないこの個室にやってきたばかりでその静かさにちょっとだけ驚く。
 今まで四人部屋に押し込められていたからだろう。目覚めたとき、いつだって誰かの寝息が聞こえていたのに今度からはもう聞こえない。うるさかった、しかしいつしか慣れた誰かのいびきも。共同部屋だからプライバシーはあまりない。常に他人の気配を感じていた。それが消えた。新しく割り当てられたこの部屋には、自分以外の―それも昨日来たばかりだから、自分のすら―気配がまったくない。それは今の自分にとって、よいことなのか、悪いことなのか。
 喉が渇いたのを感じた。
 彼は立ち上がり、ベッドは後で整えればいいやと、冷蔵庫にあるはずのミネラルウォーターを取りに行った。
 冷たい水を一気に流し込む。ごくり、ごくりと音を立てて飲んでいくうちに頭は眠気から取り払われていき、視界がクリアになっていく。生活感のない部屋を見渡して、彼はペットボトルから口をはなした。おざなりの窓は自動のブラインドがかかっていて、光が漏れ出しては来ない。というよりこんな早い時間だからまだ太陽は夢の中だろう。
 それでも、彼には今日も一日が始まる気配がした。それは一種の高揚感、そして一種の失望感を秘めていた。相反する二面性を抱えているのは、自分の中にそれがあるから。
 軽く頭を振って、彼は気を張りなおした。そんなことを考えている場合じゃない、と。
 まずは、体を動かして、そうしてからだ。
 考えるといえば、と彼ははたりと動きを止めた。
 一ヶ月ほど前からふと気がつけば考えてしまうこと。

 “彼”は、いったい、どうなっているんだろう。

 組織の末端にいる自分には欲しい情報は降りてこない。自分の階級では逆立ちしたって教えてもらえないだろう。何より“彼”の身に起こったことは伏せられていて多くの人間が知っていることではないのだ。彼も上から“彼”のことに関する事実の守秘を命じられていた。まあ、そのことについては納得できた―納得できなくても彼は命令を遂行せねばならないが―。
 あのことが公になればこの国がどうなるか、わからないわけではない。
 事実、公表されそうになった。“彼”の兄は猛烈に怒った、らしい―実際に彼は見てないからなんともいえない―。“彼”の兄は本国に連絡してこの国に宣戦布告をしようとまで考えたらしい、のだが。ここでもやはり“彼”が助けてくれた。


―お前が、そうか


 “彼”と同じ、けれど“彼”より少しばかり褪せた紫紺が彼を射抜く。


―私の可愛い弟が、どうしてだか、お前を呼ぶ。ごめん、と謝っている。だから、


 “彼”が起きたときに悲しませるようなことはしたくないから、“彼”に免じて、と。


 何故、“彼”は自分に謝るんだろう。
 “彼”を守れなかった、自分こそが、謝るべきなのに。


 ここ一ヶ月、それだけが彼の脳内を占めていた。



* * *


 朗報は突然やってきた。
 最近公の場でも憂い顔が増え、貴婦人たちや臣下たちから「お体の具合でも悪いのですか」と心配される有様である。この美麗な男性は繰り返される報告を右から左へ聞き流していた。
 麗しいと呼ばれたその容貌に深い苦悩を刻み、ぶっちゃけて言うとこのひとは思いきり会議の内容を聞いていなかった。ちらちらと寄越される視線は無視というより気づいていないようだった。
 すぐさまあの子の元へ行きたい。
 あの子には自分がついていけないとだめだ。
 いつだって傍にいて呼びかけてやらないと一生そのひとみを開いてくれそうにない、可愛い可愛い眠り姫。
 嘆息した。周囲のことなんて気にしていない嘆息であった。
 その嘆息がひびく会議室、まさにそのときに報告をしていた壮年の男性はごほんと咳をひとつしてそのまま続けた。美形が物憂げにしているとそれは確かに目の保養になるが、明らかにやる気が失せたひとみはどこか遠くを見つめておりこの場にはそぐわない。けれど誰もあえて申し立てようとはしなかった。不敬だというより注意しても無駄だと皆悟っていたようだった。
 そもそもこの皇子はあまり政務に熱心ではない。それなのに何故、統監としてブリタニアから派遣されているかというとその高位にある皇位継承権のためであろう。
 世界で中立を謳っていた日本はサクラダイトという電気抵抗が無い超伝導物質の鉱物資源を産出しており、世界ではどの国がこのサクラダイトを独占できるかがこの拮抗している世界地図を制す一手となった。小さな島国である日本は東アジアの一員だったから、中華連邦が一番近い場所にいた。中立を謳ってはいるが、さして特別な武力を持たぬ日本はこのままでは社会主義国であるが武力も経済力もある中華連邦が宗主国となる、との見方は当然だった。しかし、その系図を世界一の強国ブリタニアが許すはずもない。ブリタニアは中華連邦が日本に侵略してきた折に、安全保障条約を結び、ブリタニア軍の駐留を認めさせ、内政に干渉し始め、日本はエリアという名を与えられなくとも事実上ブリタニアの被保護国となったのであった。つまり日本は軍事上外、交上ブリタニアにとってかなり重要な国なのである。ちなみに最初に統監として派遣されたのは、第一皇子であったが三年前から第三皇子が交代した。皇位継承順位が高い者が派遣されるという事態が、この国の重要性を示している。
 自身の母后の身分が高いため、必然的に何もしなくとも生まれたときから彼の継承順位は高かった。とはいえそれを自負しているといえばそうではない。彼は身を以て自分が皇帝にふさわしくないことはわかっていた。皇族としての誇りはあろうが、皇帝になろうなど思ったことはなかった。自分に継承順位が回ってくれば、おそらく彼は辞退するだろう。
 そして溺愛している非常に出来のいい義弟を迷うことなく推薦する。空恐ろしくなるぐらい、冷徹に物事を判断する能力、チェスに代表されるその見事な戦略性、先見、全体を統括する力、何より人を惹きつける魅力、所謂カリスマ性だ、王者としての資質を持ちえている彼の義弟こそ、皇帝にふさわしいと彼は思っていた。また類稀なあのぞくぞくしてしまう美貌は母親譲りであるが、天性のものであると思う。神の造形物といってもよいぐらいの、あの容貌。見た者誰もが感嘆の息をもらさずにいれないとは、まったく罪深い。
 初めて出会ったときはまだ義弟が幼い頃。神に愛された子どもとでもいうように、義弟は犯罪的に可愛かった。

―チェスができるとお聞きしましたけど、お強いんですか。どうです、一勝負。

 初対面での強烈な第二声。今でもあれは忘れられない。確か義弟は六才だった。人目につくところではにこにこ笑っていたのに、二人きりになった途端、上目遣いで挑戦的に言われたのだ。年下で皇位の低い義弟に言われて腹が立ったというより、衝撃でしばらくぽかんとしてしまった。よもやこんな幼い子どもに勝負を申し込まれるとは思わなかったのである。ちなみに惨敗した。
 実はそのときはかなり怒った。年下に負けたのが悔しかった。今までこんな思い―敗者というみじめな思い―を感じたことは一度たりともなかったのに、屈辱的な思いを自分に浴びせた義弟をかなり憎らしく思った。年上に対して生意気だと思った。臣下に当り散らして、もう二度とあんな無礼なやつのところになんか行くものかとわめいた。
 それなのに、何故か彼は義弟の離宮に通いつめることになるのだが、それはまた別の物語である。
 それに接してみれば、口を開けば辛らつなことを言うが、基本的に人を思いやることのできるやさしい子どもであることがわかった。特に実の妹には底抜けに愛を与えていた。あの年で、あんなに純粋に愛を与えられることができるなんて、と眩暈を感じたことを今でも覚えている。皇族同士の醜い争いの中でも、義弟はただひとりだけ真っ白に輝いていた。
 惹かれて止まない、傍にいれば関わらずにおれない、そして誰よりも愛らしく心優しい、義弟。その、目に入れてもちっとも痛くないむしろいれたいぐらいの、愛らしい義弟は、今。
 彼はもう一度深い深いため息をついた。
 そうしてぼんやりと天井を見上げた。磨き上げられたうつくしく輝く天井。こぼれる人工のひかりに目を細めた。
 耳に入り込んでくる雑音―これでも統監だ―がうっとうしかった。こんなことしている間に、義弟に何かあればどうしよう。

―兄上、真面目に執務しないと、口を利きませんよ

 随分前に言われた台詞だった。義弟の執務室に乗り込んだときに、見惚れるしかない笑顔でにっこりと脅された。そしてそれはきちんと効果を発揮した。放ってお茶会を開こうとしたら問答無用で追い出され、その後本当に一週間口をきいてくれなくなったので、彼はしぶしぶ真面目に政務をこなす羽目になった。それ以来、彼にしては珍しく懸命に政務を早くこなしてからなら、義弟に文句を言われずに執務室に邪魔できたのに。仕方ないですね、と苦笑しながら相手をしてくれた、義弟。

「はああああああ」

 お前がいないというのに、何で真面目に執務ができる?

 思い浮かぶのはやさしい思い出ばかり。義弟の誕生日会で必死に選んだ誕生日プレゼントにはにかんでお礼を言ってくれたときの笑顔、兄弟対抗チェスゲームでの第二皇子には負けたくないと言わんばかりの熱の入ったひとみ、約束をしたのに自分がうっかりしたせいで街に外出できず拗ねて「もうクロヴィス義兄上なんか知りません」とそっぽを向いたときのあの可愛さ、どれもどれも胸を痛ませるばかりで…。
 そして同時に浮かぶのは後悔の念。

 頭がいいと思っていたばっかりに、勝手をさせたのが間違いだったのだ。
 口を酸っぱくして外出には護衛を最低四人はつけろと言っていた、私が選んだやつから騎士をとれと言っていた、というか勝手に街を歩き回るなと言っていたというのに! あんまり運動は得意じゃないくせに! というか護衛が馬鹿だ馬鹿! 肝心なときに守らなくて何が護衛だ!

 と彼の頭の中は先ほどからループに次ぐループ。
 義弟の思い出から義弟の痛ましい姿、そして義弟の迂闊さ、ひいては護衛の融通の聞かなさへ。そしてこの辺りから腹がたって苛々してくる。

 しかし、そのときに。ちなみに今回の緊急会議は此度の中華連邦の領海無断侵犯問題の件である。日本政府とブリタニアが共同で中華連邦に異議を申し立てることに決定しかけていたそのときに、失礼しますと事務官が足早にやってきて彼の耳に早急に入れたいことがあると申し立てたのだ。
 彼はその様子に反応した。もしかして、と本能的に察知したのだ。そして会議中なのに何でもいいから早く来いと命令して事務官を自分のそばまで寄せ、耳打ちで報告を受けた。
 それを聞いた瞬間、と彼は無意識の内に立ち上がった。

「ルルーシュうううううう!」

 そして奇声を発しながら、その人物はそのまま会議室からなりふり構わず出てしまった。
 その会議に出席していた人はみな、首をかしげ目を点にするしかなかったが、一部意味を理解しているものはやれやれと肩を落とすのだった。