時は人を変える。赤子のままの人間はいないように、人間社会に属している人間は須らく何かしらに影響を受けるからだ。そして時は常に一定の速さで進んでいる。人によって、走っていたり、歩いていたり、眠っているように感じるかもしれないけれど、時間は確かに等しくこの地球に流れている。つまり、人はいつでも変化し続けているのだ。
さて、時間がすべてを忘れさせてくれるといわれているが、それはどうだろう。
どうしても記憶の底に沈めておけないものはこの世に確かに存在している。
ふとした拍子で思い出す鮮明なヴィジョン、五感に訴えてくるリアリティに満ちた感覚、忘れたくても忘れられない、身にこびりついた辛く苦い経験。幸せな記憶はとみに忘れやすいのに、自身が経験した悲哀に憤怒に満ちた記憶はいつまでも染み付いていることが多い。
しかし、普通の人間ならば悔しさ、哀しさ、怒り、蔑み、様々な感情を経ることでそれは風化していくものである。哀しい記憶は奥底に封じられ、たまに思い出すことはあっても胸を痛ませるだけで自身を慰めるだけだ。完全には忘れられない。けれど日常生活を送る中で、人間世界に生きる中で、いつもそうした記憶に振り回されていたら人間は生きていけないから。
けれど、それでは生きていけない場合もある。何ごとにも例外はあるように、そう簡単にいかないのが理性を持つ人間たるゆえんなのかもしれない。憎悪というものは古代から人の力となる。確実な力、目に見えるはっきりとした強大な力になりうる。それを糧として生きていく者はいる。
さて、今、この世界に。幼い頃から憎悪の芽を育て続け、その賢しい頭脳を用いて、確実に復讐の算段を立てている者がいる。
彼は冷徹なひとみで世界を見続けていた。
そしてその冷厳なひとみで優しい世界を捜し求め続けていた。
彼は自分の命運を未だ定められずにいたけれど、「大切なひとたちがわらうせかい」をこの手で創ってみせるとこころに誓っていた。