彼はまるで猫のようだと栗色の髪を持つ少年は思う。彼と猫を結びつけたのにはけっこういろいろ理由がある。たとえば彼の髪の色だとか彼の動作とか性格とか簡単に懐かないとこだとかその秘密主義ぶりだとか。猫は主人の都合などお構いなしに勝手にどこかへうろつきまわり、けっして秘密を主人にさえも明かそうとしない傾向にある。自分のプライバシーに入りこまれたら、すぐに爪を立て侵入者を排除する徹底ぶりである。
そう、実はスザクが一番彼が猫に当てはまると思うのはその部分だ。彼は今は一応一般人という立場にいるが彼の本性は強国ブリタニアのれっきとした皇子である。であるからして正確に一般人かと聞かれたらそうではない。身分を隠して暮らしてきていることは明らかである。その彼には当然秘密も多い。その謎めいている部分もより一層彼の魅力を引き出しているのだが、彼の秘密主義ぶりは徹底しすぎているとスザクは常日頃感じている。正体を知っている自分にくらい相談してくれればいいのにとこっそり思うのだけれど、そういえば現在再会して数週間で、過去たった数週間しか共にいなかった友人にそんなに気易く相談できるものでもないとも思う。だがそこを曲げてでも自分を頼ってほしいと願うのはやはり傲慢なのだろうか。一兵士でルルーシュの嫌いなブリタニアに帰順した自分に頼れと願うのは。
子供ではないのだから彼の私生活に必要以上に干渉すべきではないし、できる立場にいるわけではないと理解しているがそれでも彼のことはすべて知りたいという欲求は彼に焦がれる身としては致し方ないものだと思う。褒められたものではないことは重々承知の上だ。
スザク、と凛とした声が呼ぶ。それにこたえるようにスザクはいつものごとく笑顔を浮かべて見せた。
次の時限は移動だな、とスザクがいつからか恋い焦がれる美しいひとは言う。ぼんやりとした頭でスザクは今日の学校のスケジュールをひろげてみた。彼の頭のスケジュール帳にもやはり次は実験室に移動だと書いてあった。
どうした、と彼の透きとおった顔が一気に近づいてきた。ぱちくりと目をしばたたかせるとぽんと頭を誰かに叩かれる。ルルーシュの友達で今はスザクともよき友達であるリヴァルであることは言うまでもなかった。なあにぼんやりとしちゃってんのさ、とからかい混じりの声音が聞こえたからだ。
しかしそれよりもスザクとしては夢にまで見そうなこの短い距離に心拍数が少しずつ上がっていっているという事実しか認識できなくなっていた。目の前にある片恋の相手が呆れをにじませたひとみで笑っている。スザクが頑張ってほんの10センチほど顔を前に突き出したら、あの薄いが形のいい桜色の唇に触れられる。彼の吐息がスザクの唇を撫でる。二人の吐息がまじり合って、ひとみにはスザクの熱を帯びた顔が嘘偽りなく映っているのが見えて、そのまま吸い寄せられるように片手が彼の顎を掴み…
…考えるだけで頭が沸騰しそうだった。
おい、本当に大丈夫か、顔が赤いぞ、熱があるんじゃないか、なんて呆れた眼差しから途端に真剣に心配そうな眼差しに変わるルルーシュにまた心臓が高鳴る。
ああ、知られたくないとスザクは願った。醜い感情を知られたくない、浅ましい劣情を彼に知られたくないと、スザクは心配そうな眼差しを与えてくれるルルーシュから一歩離れた。
だいじょうぶ、行こう、僕のせいで授業に遅れちゃだめだ、頭を振ってスザクは貼り付けなれた笑みを浮かべ、前を歩き始める。突然歩き始めたスザクにリヴァルが続くと急に離れられて拍子抜けしたルルーシュが本当に大丈夫なのかと遅れて続いた。
お前、技術部に所属してるんだろ、そういうのってけっこう神経使うんだろうし、無理せずに休めるときに休んどけよ一時間ぐらい、実験なんてあとでもできるんだからさ。
スザクは後ろから声を投げかけてくれるルルーシュの気遣いに余計にこころがじわりといやな感覚にさいなまれていくのを感じた。彼は自分の邪気に気付かないまま、ただ純粋に心配してくれているのだ。心配してくれてうれしいというより自己嫌悪が先立つ。そんな彼に心配してくれてありがとうと素直に言えない自分の狭量さには辟易していた。ただ、だいじょうぶだから早く行こうと乾いた声をルルーシュに与えることだけで精いっぱいだった。
そうか、わかったよ。ルルーシュの少しだけ突き放した声が背中へ刺さる。
ああ、違う。違うんだよ、ルルーシュ。余計なおせっかいだなんて思っていやしない。君がひっそり隠しているその優しさを傷つけるつもりはなかったんだ。
けれど彼へ延ばされようとしている手は頭の中で明滅しているだけで、すいとスザクの隣を通り過ぎる彼を実際にとらえることはなかった。臆病だなと自嘲してみても何も変わらないし、ましてや凛と前を向いているルルーシュを見るだけで胸が高鳴るなんてどうかしてる、とスザクは息を吐いた。
実験てなんの実験だっけとリヴァルが手を頭の後ろで組み合わせながらぼやく。それにルルーシュがテキストの71ページのやつ、先週、先生が言っていただろうと無愛想に告げた。
げっ、あれめんどくさそうなやつじゃん。
そうだったかな。
わーわー、適当に結果をでっちあげられない…。
当たり前だろ、馬鹿。
細かい測量とか俺には無理だってー。ちぇー、ニーナが一緒だったらいいのいになあ。
確かにな。
そこでくすりとルルーシュは笑みをこぼした。
彼女がいたら、正確な結果が得られそうだ。
…この際、ランペルージくんでもいいんですけどねー。
それは先生次第だ。あ、もしグループが違っても写させないからな。
えっ、なんでだよー。友達じゃん。
まったく同じ数値だったら怪しまれるだろう?
あーあ…得意なやつにあたることを祈るしかないかあ。
リヴァルががっくりうなだれたところで、くるりとルルーシュが後ろを向いた。スザクのほうを、振りかえった。紫のただ奇麗に澄んだひとみがひたりとスザクのすべてを射抜く。
どうしたんだ、黙って。
ルルーシュは先ほどの一件をもう引きずってはいなかった。虚をつかれて、スザクは思わず持っていた筆記具を取り落とす。からん、とカンペンケースが無機質な音をたてて階段を転がっていく。がちゃりとペンケースの中身が無情にも暴かれた。あ、と間延びした声がした。耳をふさぎたいような、目をつむってなかったことにしたくなるような惨事がこのアッシュフォード学園ののどかな階段を襲う。
何やってるんだよ、運動神経はいいくせに、変なところで抜けているんだから、そう言って彼は転がっていったペンケースへ歩み寄って、リヴァルはあーあと他人事のように呟きながら近くに散らばっているペンをいくつか拾う。
頬が火照るのを感じながら、スザクはごめんと掠れた声で自分もペンを拾い上げた。そのときだった。
スザクが愛用しているボールペンが、ルルーシュが今まさに踏みしめようとしている階段に、乗っかっている。スザクは反射的に手を伸ばした。
「ルルーシュ!!」
「ごめん」
ルルーシュの白い足首をしっかり固定させながら、慣れた手際でくるくると包帯を巻いていく。そんな中、スザクは顔を俯かせながらぽつりと声を出した。
つんと鼻にくる消毒液の匂いがこの部屋を支配している。この部屋とは言わずもがな、保健室と呼ばれる場所だ。ちなみに養護教諭はただいま職員会議中のようでスザクとルルーシュ以外、誰もいない。その事態にスザクは舌打ちしそうになったのだが、ルルーシュを担ぎながらだったのでやめておいた。
「悪いな、こんなことやらせて…というか、そこまでひどい怪我じゃないんだ。お前は大げさすぎるんだよ。そんな深刻にするなって」
「ルルーシュが謝ることなんてない。僕のせいじゃないか。僕がペンケースをちゃんと持っていればよかったのに、本当にごめんね。それに、足を捻るっていうのはけっこうひどいよ。骨には異常はなくても、関節を痛めていたら後に響く。ちょっと熱を持ってるな…ああ、あんまり足を動かさないで。あと、病院に行ってきちんと検査してもらったほうがいい。僕も付いて行くから」
「付き添いはいいよ、自分で行ける。子供じゃないんだ…まったく、いつからこんなに過保護なんだか。昔は俺が怪我しても唾でもつけとけって言ってたくせに」
「…昔と今じゃ、全然違うよ」
「確かにそうだけどな」
「付き添い、するから」
「別にいいって。お前は軍の仕事があるだろ?」
「今日はそんなに立て込んでいないから大丈夫」
「まじめなお前の時間を俺のために割けないよ。今だって授業をさぼらせているんだし、これ以上は悪い」
「遠慮しないでよ、僕のせいなんだから」
「遠慮って…普通だろう。そこまでしてもらう必要はないし…本当にそこまでひどいわけじゃないんだ。痛覚はある。本気で悪いときは怪我した部位は痛覚をなくすっていうし」
「だけど、ルルーシュ」
「あ…ほら、もう授業に出よう」
「だめだよ。ルルーシュは休んで。痛いんだろう? 休んでいたほうがいい。発熱することあるから」
「だから、そんなに悪くは」
「大丈夫。僕もここにいるから、さびしくないよ」
「はあ? さびしいとかそういう問題じゃないだろう」
「じゃあ、なに? 授業に出たいのかな」
「…出たいのは俺じゃなくて、お前」
「僕の優先順位は、授業よりルルーシュのほうが圧倒的に上」
「それはどうも」
「ほら」
「ほら?」
「ベッド」
「それは見ればわかる」
「うん。だから、ほら」
「だから、なんだ。ほらって」
「え? 眠るんだよ」
「誰が?」
スザクがぽんぽんと洗いたてのシーツで整えられた清潔なベッドをたたく。満面の笑顔付きで。さっきまで申し訳なさそうに顔面が蒼かったやつの顔色とは思えないぐらい爽やかでいい顔色だった。
「ルルーシュ」
「…別に寝なければいけないほど悪いわけでは」
「まあまあ。眠るの好きでしょう? 授業中よく寝てるよね」
「睡眠欲っていうのは人間の生理欲の中でも重要で必要不可欠なもので、別に好きというわけでは…俺は必要にかられてやっているわけで」
「はいはい。ほら、寝て寝て」
「…子ども扱いをするな」
「聞き分けのない子にはそれ相応の振る舞いをしなくちゃ」
「ああもう、寝ればいいんだろ、寝れば!」
「そうそう。聞き分けのいい子は好きだよ」
「……」
がばりとルルーシュはシーツを頭から思い切りかぶった。
スザクの生暖かい視線が顔中に突き刺さるような気がしたからだった。
「……」
「……」
スザクが身動きをとる気配はない。
ルルーシュは広がる白の世界から逃れるように、ぎゅっと瞼を閉じた。
「ルルーシュ?」
それからしばらく経ってから、そう、ちょうど時計の秒針が授業の半分の時間を過ぎたとき。吐息をもらすような声が、ひっそりと落とされる。
「もう寝たかな?」
返事はない。
スザクが息を殺して気配を伺ってみる。不自然な様子はなかった。
「ごめん」
しぼられた声は震えていた。
「ごめんごめんごめん」
ともすれば泣き声に近かった、それ。
スザクは白いシーツに顔をうつ伏せて、ただ謝り続ける。
「ごめん。君を怪我させてごめん。最低だ、僕。護りたいのに、守れやしない」
手を伸ばしたとき、本当は一瞬だけ指先がかすった。そのままつかもうとしたのに、何故か滑って掴めなくて、あとはあっという間だった。ルルーシュは階段から数段落ちていった。どすりとルルーシュの体が落ちて行って、それをただ見ることしかできなかったスザクは全身をこわばらせていた。
幸い、ルルーシュはすぐに起き上がってくれた。
けれど、これがもし、本当に取り返しのつかない事態だったら。
自分があともう少し踏み出していたならば、自分が傷つくことを厭わずに彼へ近寄っていたら、護れたかもしれなかった。
それを思うと心臓を鷲掴みされたように、全身の血が凍った。
「好きなんて感情、いらないよ」
この感情のせいで、君を本当に護ることができないのなら。
「いらない。いらない、好きなのに護れない。君を護れないのなら」
独占欲にまみれた汚いこの人間的な感情なんて、いらない。
消えてしまえ。