枢木スザクという少年は周囲から、その風貌と持ち合わせる空気から草食動物と見られがちである。いや、彼の友人ルルーシュの対として“犬”と例えられることがあるが、とにかく彼は温厚篤実な人間と見られていることに間違いはなかった。もちろん彼が軍人であるという事実は動かしがたいもので、たまにものすごい運動神経を惜しみなく発揮してくれるものだから、羊のようにぼんやりしているとは誰も思わないのだけれど。
ともかく枢木スザクという人間は滅多に怒らない。たとえ自分が名誉ブリタニア人、おまけにあの芸術週間という素晴らしいものを作ってくださった麗しのクロヴィス殿下殺害の元容疑者ということを以てして低俗な輩が地味に嫌がらせをしてこようとも困ったように眉をハの字に変えてしまうだけで怨嗟の声を吐くことはなかった。もう少し他人に相談しろと友人は何度も彼に呈しているが彼は曖昧に笑ってそれを流すだけに留まっている。ちなみに暴力で立ち向かって来られたら相手方に―ルルーシュはお人よしの馬鹿だと嫌な顔をする―怪我を与えないよう適度に相手をしてお帰りいただいているようだ。一度、無抵抗で攻撃を受けてやったことがあった。曰く、殴って落ち着く相手ならそれでいいと思って、である。しかしこれはルルーシュにひどく怒られて―自虐的な馬鹿とは口を聞かないと宣言をしたのだ―三日も口を聞いてもらえなくなったのでやめることにした。ただでさえ軍務で学校にいつも来れないというのに、これ以上大好きな友人と過ごす時間が減ったら、何のために学校に来ているのか全然わからない。
とにかくそんな温厚という言葉をそのまんま人間にしたような人間が。
「ス、スザク…」
「ねえ、スザクくん…お、落ち着いて、ね?」
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
針のむしろのようなこの居心地の悪い空間で目を泳がせながら、当事者以外の生徒会役員全員が思っていた。そしてこの生徒会役員の中にこの個性の強い生徒会をまとめているモラトリアムを常に謳歌している会長がいないことが、また一因になっているに違いなかった。
「落ち着けって何のこと?」
「い、いやさ。とりあえず頭を冷やそ「僕はひどく落ち着いてるよ」
「ひいい!」
「無理よ、これはー!」
取り付く島もないとはこのことである。
口の端をほんの少しだけ上にあげている枢木スザクは普段の彼からは想像もつかないほど壮絶なオーラを出していた。いつもの春の陽気のような人懐っこいオーラではない。むしろ極寒、ヒマラヤ山頂のような凍えたオーラである。ちなみに口角を少しあげているからといって笑っているのではない。
枢木スザクはそ知らぬ顔で書類をめくっているルルーシュ・ランペルージの隣に立って、彼の秀麗な顔を覗きこむように片手をテーブルにつけていた。何度も言うがルルーシュ・ランペルージは枢木スザクのそんな様子を気にかけるそぶりもなく、書類を片付ける手を休めなかった。
「ルルーシュ〜、お前のせいじゃんー! 何とか言えよー!」
「もう話し終わった」
「話し終わってないよ、ルルーシュ。僕は納得してない」
「そんなもの俺には関係ない」
「関係ない?」
「ああ。お前の都合なんて俺の知ったことじゃないな」
「それじゃ、僕も君の都合なんて知ったことじゃないね。質問した僕が納得するまで話は続けるつもりだ」
「お前には関係ないだろう。俺のやっていることなんてな」
「…もう一度言ってくれる?」
「何度でも言ってやるよ。お前には関係ない」
「そう。僕には関係ないんだ」
「関係ない。そう、これっぽっちもな」
「ミジンコほども関係ないっていうんだ」
「ああ。アトムほども関係ない」
ふうん、と飴玉を口で転がすように、枢木スザクは彼の焦げて苦みばしったことばを咀嚼した。
「友人として君の最近の動向を心配するのがそんなにいけないことなの」
「度を越した心配はされる側にはただの迷惑なお節介だ。放っておいてくれ」
「僕は理由と原因を詳しく知りたいだけ。君は嫌ってるけれど、僕は軍人。民間人を守る義務があるんだよ。そんな危険があると知ったら放ってはおけない」
ルルーシュ・ランペルージはわずかに体を震わせて―けして恐怖や感動のたぐいではない―ひどく冷たい双つの翡翠を見上げた。そのアメジストに浮かんでいるのは一種の侮蔑であった。名誉ブリタニア人として蔑視される枢木スザクにルルーシュ・ランペルージだけはけして見せることのなかった色を、このとき彼はためらいもなく向けて見せた。
そして枢木スザクもこころの奥底で鈍い針が刺される音を聞いたけれど、軍人として慣れきってしまった痛みだと頭を振り切ることで、その色を受け入れた。こころの痛みなど、今は問題ではなかったのだ。
「フン…守る義務? そんなの強者が弱者を支配するための詭弁の一つだろう。プライバシーというものをまるで知らない生き物だものな、軍人ってのは。国の名前を出せばそれが通ると思ってる」
「何とでも言えばいいさ。僕は怯まないよ、ルルーシュ。確かに軍人という立場を出したのは卑怯だけれど、ナナリーのためにも知らなくちゃいけない。最近の君の行動は変だ。危ないところに出入りしているだろう」
「お前が考えているような、危ないところじゃない。俺はナナリーだけは絶対に悲しませない」
「それを判断するのは君だけじゃない。ルルーシュを大事に思っている、ルルーシュも大事に思っている君の周りを取り囲んでいる人たちも判断するものだよ。君一人の行動が君一人だけに及ぶなんて思ったら大間違いだ。ルルーシュ一人が責任を取ればいいっていう問題じゃないんだよ」
「……その中にお前は入ってない」
「……あくまで僕を拒むつもりなんだ?」
「………」
押し黙ったルルーシュのひとみがそうだと告げていた。
枢木スザクの中で、それを感じた瞬間、獰猛な本性が首をもたげるのを彼は止められなかった。ほんの一瞬だけ、世界の色が変色したように見えた。鮮明な色をつける世界が、モノトーン、そしてビビッドの世界へ。肺が締め付けられる。
拒まれた。
猛獣が唸る。目の前にいるのは、エモノだ。
枢木スザクは軍人として勝ち得た知識を使うことを躊躇したりなどしなかった。負傷している部位など、知らぬ普通の人間を見ても分かるのに、普段から見ている、否見続けている大切な人間の平生とは違う所作で看破できる。
枢木スザクの腕が伸びた。彼の手が伸び、もちろんルルーシュ・ランペルージはそれから逃れる術はなく掴まれた瞬間低い声をあげてしまったのをもちろん彼は聞き逃したりしない。
「服の下で隠れると思った? きちんと医者に見せてるの、それ」
「うるさいな…見せてるよ」
「嘘だ。じゃあ、どうして怪我の部分を直接触ったわけじゃないのにそんなに痛そうにするんだ」
「まだ治りきってないからだろ。それにお前は力が強すぎるんだ」
「ああ、ごめんね。力加減、忘れてた。それと、怪我の具合を僕に見せてくれる? これでも軍人だからね、それなりに救護訓練は受けてて看ることはできるんだ。ちゃんと手当てされてるんなら、すぐに見せられるはずだよね」
「…お前なんかに見せたくない」
「じゃあリヴァルに見てもらう? 素人でも君の怪我の具合がどれだけ悪いかわかると思うよ」
ここになってようやくルルーシュ・ランペルージは枢木スザクの平生と違う勢いに呑まれはじめた。声に弱々しさが生まれ、気高いと感じる高潔なひとみが雫が落とされた水面のように揺れる。だが、薄い形のよい唇はけして負けを認めるつもりは毛頭ないようで、きつく引き結ばれている。そしてそれはふるふると震え、何のぶれもない翡翠の双眸を見止めると、声高に叫んだ。
「そんなことされなくても、きちんと自分の状態は自分でわかっている! 余計なお世話なんだよ。お前なんかに心配されたくないんだ。お前なんか、ブリタニアの軍人のくせに。ひとの気持ちも考えない、無神経で傲慢で! 迷惑至極な世話なんか焼く暇があれば軍の狗はお家に帰ればいいだろう!」
誰も何も言わなかった。
ルルーシュ・ランペルージ以外の誰も枢木スザクの今の顔を見ることは出来なかった。絶対に、それはできないと思った。そうしなければ、自分たちの中の枢木スザク観がだめになると思った。築き上げてきた城が、砂のお城のように消えてしまう。そんな気がした。
沈黙という名の時間が、しばしこのいかにも良家子女の通う学園の生徒会室と思われるこの豪華な部屋に広がっていった。
ルルーシュ・ランペルージは声を荒げたせいか、そのあと口を噤んで何の声もあげない。どんな表情をしている生徒会役員にはうかがい知れなかったが、ともかくルルーシュ・ランペルージも平生の彼とはまったく違う顔をしているはずだった。
とにかく、すべてが初めてで、その衝撃に耐えるだけで精一杯だった。
あれだけルルーシュ・ランペルージのことばに間髪入れず返答していた枢木スザクがしばらく何も言わないことが、この場の空気を余計に重くしている。ひとは常に体温を発している恒温動物だというのに、冷気を発することができるのだろうか、彼の周囲から芯から冷たくなりそうな微風が生まれている気がしてならない。不気味だった。
しかし、その間を打ち破ったのは、やはり他でもない彼であった。
「…………来て、ルルーシュ」
低く硬質な声がよく透った。
「嫌だ。離せ」
「来るんだ」
「離せ!」
「これ以上、僕を怒らせないで」
「つッ……!」
「君に力ずくなんてしたくないんだ」
「もうッ…してるじゃないか…!」
ルルーシュ・ランペルージの腕を骨が軋んで悲鳴をあげるほど掴み、有無を言わさず立ち上がらせる。がたりと椅子が無機質な音を立てて倒れた。
「僕は、これでも、随分手加減してるつもりだよ。強情を張るのはやめるんだ」
「うるさい! お前なんか…! お前なんか…!」
「後で君の文句は聞こう。ここでは皆に迷惑がかかるし、僕も言いたいことが言えない」
「俺にブリタニアの軍人が触るな!」
「君は好きなだけ罵ればいい。言ったろう、僕は怯まないと」
枢木スザクの鋼鉄の声は場を更に冷気で満たした。おそらく、ルルーシュ・ランペルージは当初の枢木スザクは関係ないといった理由で彼が外で連れ出そうとするのを拒んでいるのではない。明らかにルルーシュ・ランペルージの顔には一種の恐怖が浮かんでいた。彼は、枢木スザクを怖れていた。
その後だいぶルルーシュ・ランペルージは抵抗していたが、鍛えられて引き締まった体躯を持つ枢木スザクに敵うはずもなく、無理やり引っ張られていく。
生徒会役員の誰も、引き止めることはできなかった。
しゅんと生徒会室の重厚な色合いの扉が開く。
まだ嫌だと抵抗しているルルーシュ・ランペルージをつれて、枢木スザク本人はそれほど重たくもない足取りで出て行った。扉がまだ自動で閉まる。「離せ! やめろ!」という声が廊下に響いていた。じんわり、じんわり、その声は遠ざかっていく。それとともに、空気はいつもの澱みのない生徒会室の空気に戻るはずなのだが、陽だまりのような世界はそうそう簡単に戻ってこなかった。
その後、高潔なルルーシュ・ランペルージが草食と思われていた枢木スザクとどうなったかを考えるなんてことは、この場の誰にもできなかった。