ねえ、お兄様。
幸せな世界になっているって言ってくださいましたけれど、そこに、お兄様は、いらっしゃるのですよね。
私のそばで、笑っていてくださるんですよね。
ねえ、お兄様、こう聞いたら、お兄様は答えてくださいますか。
このえがおはいつもおにいさまのためにあるのに。
「ナナリー、お母様を困らせてはだめだろう」
「ナナリー。大丈夫、大丈夫だよ。僕はずっとナナリーのそばにいるから、何にも怖くないから、ずっと守るよ。ずっと、お前が幸せになるまで」
「ナナリー、きいてくれ。スザクはな、ほら、このぐらいな、大きな蛙を素手で触れるんだぞ。イボイボのヤツ。まったく、怖いもの知らずっていうか。とにかくスザクには気をつけろ! 変なもの渡されそうになったら、必ず僕に言うんだ。わかった?」
「ナナリー…なんにも怖くないから。僕とスザクがいるから、お前を守るから」
「ナナリー。ここが僕たちの新しい家だ。ここでふたりでがんばっていこう。不安なんて感じることはないんだよ。全部、お前は心配しなくていい」
「ナナリー、大好きだよ。怖いときはキスしてあげる。ほうら、笑って」
「ナナリー、お誕生日、おめでとう。ミレイがお誕生会しようって言ってくれているんだ。知っていたか? あ。サプライズだったかもな…」
「ナナリー、俺はお前に嘘はつかないよ」
お兄様が、私が笑うことでお兄様が笑ってくださるなら、何度だって笑う。
大好きだから。愛しているから。たったひとりの存在だから。
おそらく、お兄様が私のために何かをしてくださってる。
おそらく、それがお兄様を苦しめている。
おそらく、お兄様は私のためにすべての罪を背負おうとしている。
ねえ、お兄様。
幸せな世界になっているって言ってくださいましたけれど、そこに、お兄様は、いらっしゃるのですよね。
私のそばで、笑っていてくださるんですよね。
「ナナリー…ただいま」
「…お帰りなさい、お兄様」
ナナリーの兄、ルルーシュが帰宅したとき、ひかりを失っている彼女の目は漆黒に塗られた外に向かっていた。
外からリビングにひかりが残っているのが見えて、ルルーシュはもしかしてとリビングに来てみれば案の定、ナナリーがいつも通り愛用の車椅子に座って窓際で兄を出迎えたわけである。時刻はもう次の日を廻っていた。遅い時間帯である。平生ならば彼女はもう就寝している時刻だった。だから、ルルーシュとしては彼女が自分を待っていたことに驚いたわけだ。走ってきたのか、肩で浅く息を整えている。
「ごめんなさい…どうしても、お兄様のお顔が見たくて…」
夜も更けて、ナナリーの身の回りの世話をしてくれる咲世子がもう休まれてはということばを柔らかく拒んで、兄の帰りを待ち続けた。
「そうだったのか…ごめんな。最近、帰ってくるのが遅くて」
ルルーシュが近づいてくる気配を感じながら、ナナリーは手馴れた様子で車椅子を彼の方向へ動かした。
「そうですよ。怖いことしちゃ、だめなんですからね?」
「わかってるって。ちょっと夢中になったんだ」
「お兄様は凝り性なんですから……」
「ごめんごめん。気をつけるよ」
やがてルルーシュがナナリーの前でしゃがんだようだった。兄の香りがふわりと鼻を掠める。兄は香水などをつけていないが、兄には独特の人を惹きつける香りが備わっている。ナナリーはその香りを愛していた。ナナリーには兄の香りも、近づいてくる足音も、髪が風で揺れたその音さえも判別できた。ナナリーは兄のすべてを愛していた。
ナナリーの手は兄の手で包まれ、優しくさすられる。
兄の思いやりに満ちた声を聞くと、ナナリーのこころに巣食っていた不安は次々と浮上していく。これではだめだと思っていても、与えられる優しさをナナリーはただそのまま受取るしか術を知らなかった。
「本当ですよ?」
「本当だ。俺はナナリーの約束を破ったりしないだろう?」
それは、きっと嘘。
「…早く、帰ってきてくださいね?」
そう思っても、ナナリーはいつものようにちょっとお茶目に微笑むことにした。
そのナナリーの様子に兄のほっと安心したような雰囲気が伝わってきて、それがまたナナリーのこころをざわつかせたけれど、彼女はそれを表に出さない。兄もこころの不安を外に出さないように取り繕うのが得意なように、妹も内で清算するのは得意だった。
「わかってるよ。じゃあ、遅いからもう寝ようか」
「はい…あ、でもその前に」
「? どうかしたか?」
立ち上がった兄に、しゃがんでくださいと頼むと兄はすんなりしゃがんでナナリーと同じ目線に合わせてくれた。
ナナリーは何も言わず、ただその白魚のような手を伸ばし、兄の頬に触れた。
「ナナリー?」
「お兄様のお顔が見たくなって」
「……そうか」
兄が頬を緩ませるのがわかった。柔らかく、他人に見せないような顔を無防備にナナリーに与えてくれている。
そう、兄は笑顔を作ってくれている。
否、今は“作らず”笑んでくれているのだろう。
しかし、兄の本当の笑顔はナナリーの中で八年前の状態で固まっている。
そしておそらくそれは真実なのだ。
兄は本当のこころからの笑顔を、もう凍らせていた。
二度とこの世界に見せるつもりはない。
「お兄様、大好きです」
「…俺もだよ、ナナリー」
兄の、冷えた手がナナリーの頬をなぞった。
冷たいのに、冷たくない。無性に涙がこぼれそうになった。
それは何故か哀しかった。
兄の手はもう引き返せない運命を掴んでいるように思えたからか。
妹の自分には計り知れない何かを、妹のために、自分の身が引き裂かれても。
ナナリーはもう一度、いつものように微笑んだ。
ねえ、お兄様、こう聞いたら、お兄様は答えてくださいますか。
私の目が開いたとき、お兄様の宝石のように綺麗なひとみを、見つめることができるんですよね。