君にあの罪業を偽りを責められたかったのか。
暴かれた自分の闇を断罪されたかったのか。
そうして作り上げた自分自身を否定して欲しかったのか。
もしくは、優しい優しい君が抱きとめて“僕”を受け入れてくれると期待して、俺はお前の手で救われたかったのか。
けれども、君は
昼の日光によってきらきらと反射しているステンドグラスの破片が散らばるその中で、彼は嗚咽を漏らしていた。
四肢を痙攣させ、次々と襲い掛かってくる影を振り払うように頭を振って、手は無音を促すために両耳に当てられている。
声にならない声が夏の向日葵のような彼の口から零れだしていた。
うわ言のように「俺が、俺が…違う、僕は」と繰り返されるそれを聞いて黒髪の少年は目を細めた。“彼”が崩壊している、少年はそう直感した。
少年は初めて彼がこんなふうに動揺する様を見て、自身も混乱していたからだろうか。暫くの間、近寄ろうとはしなかった。否、できなかったのである。彼は全身ですべてを拒絶していた。体を震わせ、この場に少年がいることも忘れてしまったのか、先ほどから聞き取れないことばをぶつぶつ呟いている。
枢木ゲンブ首相
少年ルルーシュは幼少の頃から英才で名高い。記憶力とて過言ではなかった。初めて対峙したスザクの父、枢木玄武。いつも厳格なその姿勢を崩そうとはしなかった、それは息子の前でも。さすが国民から支持の高い首相だとルルーシュは納得していた。そして人質であるルルーシュたちにその敵意を感じさせるまでの冷徹を見せる彼の高潔さを理解した。同時に戦慄した。
ルルーシュは殺されると思っていた。人質としてやられた自分たちはブリタニアから迎えが来ない限り、ここでゲンブの手によって殺される、と。そのために枢木邸に預けられたのだから。だからルルーシュたち幼い兄妹にはいつでも、死の危険が日々の生活の中にあった。そしてルルーシュは頑なに妹だけは守ろうとしていたのだった。
それなのに、今考えても不思議なのだが、ルルーシュたちはゲンブの息子のスザクと仲良くなった。スザクはルルーシュにとって初めて友人と呼べる存在となった。スザクにとっても、ルルーシュは大切な友人の一人にはなったと思う。
玄武はこれを予測していたのだろうか。
初対面から敵意むき出しでブリタニアすべてが憎らしげだった息子のスザクからは想像もつかない。まさか、息子がブリタニアの人質と深い交際を結ぶとは。屈託のない笑顔を見せ合える関係になるとは。
まさか。
ルルーシュは思考の結果行き着いたあるひとつの可能性におののいて、身を竦ませた。
彼が父親を殺した理由は、まさか。
いいや、違うとルルーシュは首を振った。あってはならない答えだった。
それに彼も言っていたではないか、「そうしなければ、日本は」と。
彼がそうしなければ日本はどうなっていたのか。
今だってエリア11となってしまっているのにそれよりも最悪な結果が日本に待っていたのか。
それよりも、理由を後付けした“この結果”を彼は迎合しているのだろうか。
様々な要因によって形作られたであろうこの結果は、けして彼の手によって創られたわけではない。
とにかく、結果、そうなってしまった。
結果論。
どくりとルルーシュの脈が強く唸った。
間違った結果に価値はないと言い切った彼。あの馬鹿なまでの真っ正直さに眩暈を覚えたが、やはり彼は。
常に自分を危険に追い込む、そうして、残酷なまでの自己犠牲を行おうとする。善意という名の自己憐憫、自己満足。自分自身を守るための矛と盾。
( マオめ……! )
先ほどから耳を打つ彼の押し殺した悲鳴、小さな頃に聞きなれた一人称。
マオの声が耳朶にこびりつく。露わになる彼のこころの闇。粉々に砕けたステンドグラス。
心臓がひやりと冷たいナイフで突き刺されたような、ぞっとする感覚がルルーシュが支配する。
喉元にせり上がってくる吐き気が襲ったが、ルルーシュはそれを手で口を押さえることによって耐えた。
彼は目に見えてわかるぐらい、がたがたと震えていた。
反射的にルルーシュは彼に駆け寄ろうとした。
彼を覆いつくそうとする彼の闇から守らなくてはと思ったのだ。彼を。
けれど、ルルーシュの足が動き、足音が響いたその瞬間。
「来るな!!」
彼が吼えた。その凄まじく陰気を帯びた声にびくりと驚いて、ルルーシュはその場に足を縫いつけた。
「……来るな…」
来ないでくれ、と。
絞るように落とされたそのことばに足がすくんで、ルルーシュは彼の哀願と呼ぶべき命令に反抗することができなかった。
ステンドグラスがあった場所から太陽の光が差し込んで、ルルーシュの影を伸ばし、また彼の視界を覆う。
白の世界と破壊されたこの惨状。
熱を孕んだ陽光は残酷なまでに、打ちひしがれる彼とステンドグラスの欠片の様を晒していた。
それでもまだ駆け寄ろうとする意志がルルーシュに残っていた。
スザク、と名を呼ぶ声は自分でも情けないほど弱々しい。ルルーシュの中の彼への思いがそうさせたのかもしれない。彼への情が彼を守ってやれ、抱きしめてやれと叫んでいた。
彼の全身はルルーシュという存在を否定しているように見えるのに、実際に彼は口に出してルルーシュを拒んでいるのに。
だがそうだとしても今の彼のそばについてやらなくてはと、ルルーシュにはそう思えたのだった。よろよろと力のこもらない足取りで、ルルーシュは彼のほうへと近寄る。そして、ぱきりと、ステンドグラスの破片を足で踏んだ。
「お前に、何が分かる!」
ばり、と何かが砕ける音がした。
ルルーシュが見れば、彼が両耳を押さえていた手の片方を床に叩きつけ、そこに散っていたステンドグラスが割れた音のようだった。
久々の彼のルルーシュへの敵意だった。
彼は今の自分に近寄るものは敵だと思っているらしかった。
それはルルーシュのこころのある部分を抉ったけれど、すぐに痛みは襲ってこない。
それよりも。
デジャヴュ、というヴィジョンが鮮明にルルーシュの記憶の淵に浮かんできた。
彼と重なる自分。
打ちひしがれて震える自分の姿が。
容赦のない絶望に体中を支配される姿。
自分の中に押し込めてきた、自身の影という名のこころの闇が全身を覆いつくす。
知ってるじゃないか。
ルルーシュは自嘲した。
ああ、彼のあの感情を自分は知っている。同様ではないだろうが、それでもあの種の感情を知っている。閉じられる蓋、けして開かぬようにと迷うこころを殺して何重にも粘着性の強いテープを張り巡らした。そうしなければならなかった。禁断の壷。こころという名の深海の底の底にそれを放り込んだ。いつしか海はその存在を忘れていく。否、忘れたふりをする。この世に溢れる膨大な雫を自身に蓄積するために。
他人の眼に触れぬように。自身の闇に喰われぬように。そしてそれから自分を守るように。
自身を造る。
自分だったらどうだろう。
考えるとルルーシュは闇の世界に放り込まれたような虚脱感を覚えた。
自分がこのこころの闇を彼に晒したら、どうだろう。
あふれ出てくる闇を止めることができない自身の弱さを晒し、なおかつすべてを包括されたら、自身を認められたら。すべてを承知してくれたら、赦してくれたら。
喜悦と恐怖、double bindだ。
そうなった瞬間、自分の中の大切な何かが確実に壊れる。“ひとりの”人間として生きるうえでの、大切な何かが。
それに、彼はルルーシュの赦しを望んではいない。
彼の場合、赦してほしいのは。
「……C.C.が後始末したのか」
ルルーシュは教会の自動扉から音も立てずに出た。
後始末、とはC.C.が自らの手で葬った彼女の前の契約者のことである。その彼女の姿もどこにも見当たらなかった。
仰げばうっとうしいぐらいの青空が広がっていて、何だか癪だったから眉根を寄せる。こちらはそこまで晴れ晴れとしていない。けれど、これで曇天だったらそれでいて気が滅入るだろうから、これでちょうどいいのかもしれないな、とルルーシュは結論付けた。
もうすぐ昼休みだろうか、やや騒がしげな学園は今日も変わらぬ姿を保っている。
その変わり映えのない日常性に胸が締め付けられるのを感じながら、ルルーシュは教会の扉から離れ、扉から数歩先にある段数の少ない階段に腰掛けた。そうしてふうと息をつく。
陽光が眼に眩しい。思わず手を庇代わりにかざすと、学園から授業の開始か終業の鐘の音が聞こえてきた。
ナナリーに会いに行かなくては。無事を確かめなくては。
そう思うけれど、ルルーシュはこの場を動けないことを知っていた。
この教会の中にいる彼よりもナナリーは大事だ。ナナリーは彼を構築するすべてであるから。
それでも、ルルーシュは動こうとはしない。
ルルーシュは静かに瞼を閉じて、視界に広がる世界を遮断した。
そしてどれぐらい経っただろう。
眠ってはいないはずだが時間の感覚がぐにゃりと曲がってしまったようで、日が大分傾いていることにルルーシュはしゅんと自動で開かれた扉の音で気がついた。
「…え…あ、」
出てきたのは紛れもない彼だけである。入り口の扉を陣取っていたのだから、彼しかありえない。ためらいがちな幼なじみの声が後ろから聞こえたがルルーシュは何も言わなかった。
「ルルーシュ……?」
呼ばれてではないが、ルルーシュは立ち上がった。ぱんぱんと汚れを払い落とし、軽快に階段を降りる。しかし教会の扉から姿を現したばかりの幼なじみは予想もしなかった事態なのか、その場から身動き一つしない。
降りた先でルルーシュは立ち止まった。
「…あの…」
「行くぞ」
「え?」
「ナナリーのところに」
「あっ、うん………」
幼なじみのほうを振り向かずにルルーシュが歩き出すと、彼は弾かれたようにルルーシュの後に続いた。
ルルーシュは毅然と前を向き若干早歩きで足を進め、彼はルルーシュの後を追うように数歩遅れてついてくる。しようと思えばできるのに、普段の彼ならばそうするだろうに、彼はけしてルルーシュの隣に並ぼうとはしなかった。
そのまま無言の空間は続いていった。
運よく教師に捕まらずに済んだので、途中授業がサボったのが知られて二人が叱られるということもなく、クラブハウスへ二人は近づいていくことができた。足早なルルーシュに遅れて続いていく彼。ルルーシュが振り向けばどうなるかなんて、誰にも分からないことだった。
とにかく妹の安否を確かめようとしっかりした足取りで進んでいくルルーシュに、先ほどの彼の動揺の名残は見受けられない。ルルーシュは口を引き結んで、前を向いている。彼がそれをどう思っているのかなんて、ルルーシュには絶対にわからないことだった。
ただ二人は沈黙を暗黙の了解として、ルルーシュの妹のもとへ向かっている。二人の共通した、大切なひとのもとへ。
彼もそれを承知しているから、ルルーシュの後を律儀に黙って続いているのだ。
内心、ひとりになりたいだろう叫び声をあげていたとしても、と急ぐ中でルルーシュはそう思う。
しかし生徒会専用と言われている豪奢な造りの―まるで皇族が住む宮殿のような―建物が目前といったところに来たときだった。
ぴたりと後ろからついてくる音が途絶えた。
ルルーシュは一瞬反応が遅れたが、やはり一緒に止まる。振り向かなかったけれど。
「君は、何も聞かないの?」
泣いているのかと錯覚してしまうような、震えた小さな声がルルーシュの鼓膜に届く。
そしてどこか自虐的である。
そうやって、彼は自分を追い込んでいくのだ。
「……僕を、君は、軽蔑するかな」
―罰が欲しいだけの甘えん坊め―
軽蔑していると言って欲しいのか。
ルルーシュに断罪して欲しいのか。
けれども声音はルルーシュに拒絶されることを滑稽なほど怖れている。
ルルーシュは振り返った。
それに驚いた彼の体がびくりとはねたのがルルーシュの紫紺に映った。
降り積もらせた年月分、ぶ厚い彼の仮面は今は脆いようだった。
怯えている彼の顔は今まさに首斬られんとする飼われた犬のようだ。けれど動物と違って彼はびくびくと降りかかってくる首切り鎌に怯え、そして断罪されたいという相反する気持ちでごちゃまぜになっている。
ルルーシュはそれを目に留めて口を開いた。
「言いたいことがあるなら、言え」
彼はゆるゆる目を見開いた。翡翠にルルーシュの黒髪が映っているのが、観えた。
「全部聞いてやる」
彼は両手で口を押さえ、信じられないなものを見るように眼前のルルーシュをひたすら見つめている。先ほどステンドグラスの破片を潰した片手は痛々しい血がこびりついていたけれど、その血はもう凝固していた。後で手当てをしよう、そう思いながらルルーシュは、一歩踏み出した。
「でも、言いたくないことは言うな」
彼は根本から優しい人間なのだ。
涙を知っている。震えるかなしみを。
自身のかなしみに浸ろうとせずに、自身を偽って、無条件に弱い存在を守ろうとする。
それが自己満足であっても、何であっても、やはり優しいのだ、彼は。
そうでなければ、いくら自身を守るためだとしても他者のいのちを守ろうとはしない。
罰などやさしい人間だけが欲するものだ。
「ル、ルー、シュ…」
その前に一つ言っておいてやる、とがくがく体を震わせはじめたスザクに一歩一歩近づいて、ルルーシュは頬に手を伸ばした。
彼は、今度は拒もうとはしなかった。
汗か涙のどちらかで濡れた頬にルルーシュの冷えたそれが触れる。
スザクの頬は熱かった。
「俺は、スザクが大事だよ。昔も、今も」
途端に、スザクの顔が十歳の、何の屈託もなかったあの頃に戻ったような気がした。
彼はルルーシュの手をおそるおそる自分の手と重ねて俯き、途切れがちに呟く。
「……僕も、だ……き、みが……大、事…」
「……そうか」
「大事……なんだ、ルルーシュ、君が、俺は」
ルルーシュと上擦った声が自らに言い聞かせるように呼ぶ。
こころの闇は誰にだってある。深く深く仕舞いこまれたそれは、誰によってでも癒せない。
ルルーシュはそれを知っていた。
誰にも融かせないことを知っていた。